うずたかく積み上げられた土色の隙間から、赤い鉄骨が見えた。悲痛の記憶を覆うように、盛り土の山々が取り囲む。町職員ら43人が犠牲になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。初めて訪れた人は見つけることすら難しいかもしれない。
東日本大震災から間もなく5年。宮城県沿岸部をあらためてたどった。
急激な変化
200~300人の遺体が漂流していると伝えられた仙台市若林区荒浜には慈聖観音が建立され、真新しい防潮堤が連なっていた。加茂水産高の旧実習船「鳥海丸」が乗り上げた東松島市の住宅街は一切の建物が消えていた。気仙沼市の鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅前では巨大な船が撤去され、槌音(つちおと)が響いていた。震災直後の風景は確かに変わった。5年の時が流れたのだ。
南三陸町志津川。3・11直後と「いま」の変化を写そうと、以前撮影した場所を探したが、目印の建築物は既になく、道路も移設されていた。記憶をたどり、ようやく見定めたが、立ち入り禁止区域になっていた。男性作業員に当時の写真を示してみた。「どこか分からない。急激に変わったからねえ」
石巻市中屋敷の美浦旅館は海から300メートルほどの地点にある。津波で壊滅状態になったが、本県のボランティア隊が連日のように足を運び、再建を支援した。
「あの日のことは、いまも鮮明に思い出す」。旅館を経営する三浦啓さん(59)は語る。息絶えた男の子を胸に抱きながら無情の地をさまよい歩いたこと。浸水した旅館まで泳いで渡ったこと。
震災から5年。津波に襲われた町方地区で盛り土工事が続いている
冷たい身体
男の子はガードレールにがれきと一緒に引っかかっていた。「1歳半ぐらいかな。ぽかんと口を開けて。驚いたような表情だった」。波にもまれている間にぶつかったのだろう。体中が傷だらけ。きれいな目をしていた。
生き返ることはない。分かってはいたが、顔の泥を優しくふき、自らの体温で温めてあげようと抱きかかえた。その体の冷たさ。涙が流れた。「きっとこの子の親は必死になって探しているはず。放っておくことはできなかった」
2013年と14年、2年続けて本県を襲った豪雨災害では、泥だしなどの支援に駆け付けた。「山形の人があれだけ助けてくれた。恩返ししなきゃと思って」
被災地では、巨大な車両が土ぼこりを上げ行き交う。ピラミッドと見まがうような盛り土が次々と姿を現し大地を覆う。巨大な防潮堤は海と暮らしを刻々と遮っていく。千年に一度の災害ともいわれた東日本大震災。「千年後の人たちは『昔の人は津波を防ぐためにこんなものを造ったのか』と笑うんじゃないか」。三浦さんは話す。
これが復興への道なのだろうか。本当に未来へつながる一歩なのだろうか。
三浦さんと共に苦難を乗り越えてきた妻の麻由美さん(52)の考える復興は明確だ。「縁側があって庭があって、おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて」。あの日を境にそうした日常が奪われた。「みんながホッとして暮らせるのが本当の復興。いつか分からないけどね。少しでも早ければいいなって思う」
本県ボランティアらの協力で旅館を再建した三浦啓さん(左)と妻の麻由美さん。「あの日以前の日常は戻るのか」と話しながら笑顔で見送ってくれた=石巻市中屋敷
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る