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挑む、山形創生

第4部鍵握る中小企業(3) 成功した事業承継

2016/5/2 10:50
「息子が継ぎたいと思う仕事にしたい」と語る阿部秀顕社長=山辺町・山形ピッグファーム

 真室川町平岡の鉄骨パーツ専門メーカー「メタルプロダクツ」は、渡辺進社長(44)の父亀見雄さん(85)が1965(昭和40)年に新庄市で創業した「渡辺鉄工所」が前身。97年に2代目を継いだ渡辺社長が軽量鉄骨に特化して活路を見いだし、年商を約60倍に拡大。家族経営の鉄工所を「東北一の軽量鉄骨部材メーカー」と呼ばれるまでに育て上げた。

■生き残るため

 2代目を継いだ当初、鉄工所の経営は下降線を描いていた。「このままでは長続きしない」と、大手メーカーが手掛けない軽量鉄骨への特化を決意。採算性が悪く、大手が敬遠する分野だが、渡辺社長は「もうけは少なくても量で稼ぐ。生き残るために、やるしかなかった」と振り返る。

 2009年には真室川町の誘致に応じ、現在地に移転して社名変更した。渡辺社長1人だった社員数は30人に増えた。長男昴さん(18)はこの春、鉄骨製造のスペシャリストを養成する専門学校に入学。いずれ後を継ぐことを考えているという。頼もしい3代目が育ちつつある。

 事業承継の方法は(1)血縁・親族関係にある者が後継者になる親族内承継(2)従業員などへの承継(親族外承継)(3)M&A(企業の合併・買収)―の三つがある。いずれを選んだとしても後継者選びがスムーズにいくとは限らない。まして、企業と家業が密接な中小企業は、「社風」「企業特性」を学ぶ時間が必要になる。

 山辺町で米粉を飼料に使った銘柄豚「舞米豚(まいまいとん)」を生産する山形ピッグファームの阿部秀顕社長(45)は創業者で父親の秀俊会長(71)から約10年かけて事業を引き継ぎ、5年前から同社を引っ張っている。

 秀顕さんは3人きょうだいの次男。兄は家業を継ぐ意志がなかった。「高校生の時、自分が継がなければならないと思うようになった」。岩手大農学部畜産学科に進み、卒業後は父親が起こした同社に入った。

 30歳になったとき、秀俊さんから事業承継について具体的に提案された。「お前が40歳になったら会社を引き継ぐ」。少しずつ会社の資産の名義など、事務的な引き継ぎを始めた。金融機関にも、秀俊さんの後継ぎとして認識してもらい、信頼関係を築いていった。

勤務先の原田林業から事業を引き継いだ佐藤健郎社長。県内各地の現場で活躍している=最上町

 「実際には10年以上かけて引き継いでいる。事業承継は自分がおやじの仕事を引き継ごうと決めた高校のころから始まっていたと思う」と秀顕さん。既に自分の後継者についても考えている。「息子はいま10歳。この仕事を継ぎたいと思う産業にしなければならない」

■親族に限らず

 中小企業は親族が後継者になる場合が圧倒的に多い。しかし、最近は職業の多様化や家業への意識変化に伴い、必ずしも親族が後継者になってくれるとは限らなくなった。少子化も、その傾向に拍車を掛けている。そんな中で、従業員を内部昇格させて後継者にしたり、外部から招いた人物を後継者にしたりするケースが次第に増えている。

 「林業は危険だというイメージをなくし、若い人を呼び込みたい」。真室川町及位にある北桜(ほくおう)林業の佐藤健郎(たけお)社長(62)は2015年5月、勤めていた町内の原田林業を引き継ぎ、社名を変えて合同会社にした。社長だった原田昭作さん(86)をおやじと呼び「全てを教えてもらった」と慕っている。

 高齢の原田さんは息子が別の道に進んだこともあり、事業から手を引くつもりだった。佐藤さんは「ここまで来たんだから、もう一度やろうとお願いした。おやじは『やれるんだったら頼む』と声を掛けてくれた」と話す。将来は別の人に譲れるように「やる気と技術のある人を育てて、事業を引き継いでもらいたい」と意気込んでいる。

(「挑む 山形創生」取材班)

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