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第7部変わるU・Iターン(3) きっかけは消極的

2016/9/1 10:13

 目的を持って積極的にU・Iターンする人ばかりではない。両親の病気や介護、家、墓といった家庭の都合で、必要に迫られて戻るケースの方がむしろ一般的かもしれない。Uターンするパートナーに付き添う形でIターンする妻や夫もいる。きっかけはやむを得ない事情でも、周囲の支えや仕事への取り組み方から、状況を好転させる人もいる。

■背中押した妻

Uターンで実現した家族との何げない日常に「幸せを感じる」と話す大場貴史さん=白鷹町

 3年前に東京から地元の長井市にUターンしてきた大場貴史さん(32)=同市時庭=の転機は身内の不幸だった。大学進学と同時に上京。卒業後は東京の企業でコンサルティング業務に就いた。結婚し30歳を前にして「帰らなくていいのか」という疑問が頭をよぎった。だが、「地元で生かせるスキルはあるのか」「現在と同等の待遇は見込めるのか」など、先行するのは不安ばかり。いずれはと先延ばしにしたまま、時間だけが過ぎていった。

 その「いつか」は突然やって来た。子どもの頃から慕っていた祖母の死。そして祖父も体調が良くないとの知らせが届いた。踏ん切りがつかない大場さんの背中を押してくれたのは、「帰らなくていいの?」という妻の一言だった。「三十にして立つとはこのこと」と大場さん。取りあえず地元に戻り、じっくり腰を据えて職探しをすることにした。

 帰郷後、知り合いのつてで精密機器の加工・組み立てなどを手掛けるニクニ白鷹(白鷹町)に入社。幸い、コンサルティングのスキルが生かせる職場だった。大きな判断に迷う時、大場さんは「これだけは譲れないというこだわりを持つことが大事」と強調する。「何が幸せか」「何を守りたいのか」。自問自答を繰り返し、将来と現在のキャリアをてんびんに掛け実際に行動に起こすことで、おのずと具体的なビジョンが見えてくるという。

 Uターンして実現できたことがある。仕事終わりに家族で囲む食卓や、妻と子どもを連れてのドライブ。どれも何げない日常だが、「ありそうでなかった小さな幸せ」と大場さん。そう感じるのも東京での生活があったから。「思い立った瞬間がUターンのタイミング。自分が納得できるまで考え抜けば、答えは自然と出ている」

山形出身の妻の希望でIターンした浅野和宏さん=山形市

■街に溶け込む

 「妻が大事だってことです」。山形市内の会計事務所に勤める公認会計士浅野和宏さん(37)=同市東原町4丁目=は照れくさそうに話す。埼玉県からのIターン。山形出身の妻の希望で、2009年1月に移住した。元は学校法人の事務職。難関資格に合格したのは山形行きを決意してからだった。

 大学卒業間際の02年春に交際を始め、約3年後に入籍した。妻から山形行きを切り出されたのは結婚を意識してから。「正直困りました」と浅野さんは振り返る。埼玉生まれ埼玉育ち。実家から大学に通い、勤め先も地元。関東ならまだしも東北ははるか遠い土地だった。

 自分にとって何が大切か。当時の勤め先に思い入れはなかった。長男ではない。両親を支えるきょうだいがいる。かけがえがないのは妻だった。

 懸案は仕事。新卒で働いて3年。特別なスキルはない。山形で何ができるか不安だった。「努力を裏切らないもの」だと資格取得を意識。親類の後押しもあって公認会計士を目指した。

 予備校通いを続けて5年。10年8月に合格した。長男が誕生し、既に山形で暮らしていた。「妻とその両親に支えられた」。妻からの「ありがとう」が何よりうれしかった。

 山形に移って7年が過ぎた。公認会計士として、税理士として企業、団体などと関わる日々。地域との接点はおのずと増えていった。子どもの幼稚園ではPTA役員も務め、今ではすっかりこの街に溶け込んでいる。「こんな人生を歩むとは思いもしなかった。でも、いい選択ができたと断言できる」と笑った。

(「挑む 山形創生」取材班)

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