東日本大震災はあす11日で発生から3カ月を迎える。死者・行方不明者2万3000人を超える大災害は自然の恐ろしさをあらためて見せつけた。山形県は大きな被害がなかったが、本県には今後30年以内の発生確率が全国的にも高い活断層があり、備えは不可欠だ。東北大や山形大の研究者、津波体験者などに取材し、大震災から学ぶべきことを探る。
1894(明治27)年10月22日、夕暮れの庄内を激震が襲った。
「俺は母や弟妹とともに裂けてはずれた雨戸から外に這(は)い出した。(略)大地の底は沸騰した大釜のようにゴーゴーうなっていた。そうして湯気を噴出する口を求めて釜の蓋(ふた)をゆるがすように、数分の間を置いては大地を震わしていた」
旧松山町出身の哲学者阿部次郎(1883~1959年)は著書「三太郎の日記」で、10代の時体験した「庄内地震」を、こう振り返った。そして「今ひしひしと胸にこたえる死の恐怖に比すれば、平日の念頭に上る死の圧迫などはまるで比較にならぬと思った」と書き記している。
山形県によると、庄内地震の死者は726人、負傷者1060人、全壊家屋3858戸。マグニチュード(M)は7.0、最大震度は7と推定されている。本県では、これ以降、100年以上にわたってM7を超える地震は発生していない。
一方、隣県では1964(昭和39)年に新潟地震(M7.5)、78(同53)年の宮城県沖地震(M7.4)、83(同58)年の日本海中部地震(M7.7)と大規模な地震が起きている。2000年に入って以降も、03年の宮城県沖地震(M7)、08年の岩手・宮城内陸地震(M7.2)と続き、今年3月には戦後最大の惨事となったM9の東日本大震災が発生した。
もちろん、それぞれの地震は本県にも打撃を与えた。しかし、県内を震源とする大地震は100年以上も起きていない。これを「だから山形は安全な場所だ」と見るか「いずれ来るかもしれない」と見るか。
1894年に発生した庄内地震を描いた石版画。炎の中を逃げ惑う人々の様子が克明に表現されている(鶴岡市郷土資料館所蔵)