いまから約千年前、巨大な津波が庄内沿岸を襲ったかもしれない。この推論が正しければ、平安時代の先人たちは甚大な被害を受けただろう-。
根拠は、庄内砂丘に広範囲に分布する泥質層。「いろいろな可能性を検討したが、いまのところ津波によって運ばれたとしか考えられない」。山形大名誉教授の山野井徹は、謎を解明するため研究を続けている。
高さ30メートル超か
きっかけは2011年3月11日に発生した東日本大震災だ。「1996年に行われた赤川放水路の拡幅工事で庄内砂丘のほぼ全断面が現れた。その際、成因不明の泥質層を見つけ、気になっていた」。いつしか、記憶は頭の片隅から消えかかっていたが、「3・11」で呼び覚まされた。
山野井はすぐに行動を開始した。「貞観(じょうがん)地震(869年)で大津波が来ていたという研究成果が、東日本大震災前に出ていたのに重視されなかった。われわれは地質学的記録をもっと大事にしなければならない」と思い立ち、庄内へ向かう。
砂丘をつぶさに歩き回った結果、遊佐町吹浦から鶴岡市下川にかけ計11カ所で泥質層を確認した。放射性炭素の年代測定の結果、堆積年代は約千年前と判明。分布地点は海岸から約500メートル~2キロ、最も高い場所は33.5メートルだった。仮にこの泥質層が津波堆積物だとすると、遡上(そじょう)高30メートルを超える大津波が押し寄せてきたことになる。
山野井氏が作成したイメージ図。津波は新砂丘を乗り越え、沼の水を巻き込みながら古砂丘に押し寄せてきたと考えている
仮説立て検証
山野井自身、この泥質層を津波堆積物と判断するには慎重だった。規模が大きすぎるし、歴史上の記録も残っていない。「洪水による浸水、火山灰の堆積、かつて沼だった可能性…。さまざまな仮説を立て一つ一つ検証したが、洪水が砂丘の上まで来るだろうか。粒の大きさがそろっていないことから火山灰ではないし、山間部ならともかく、海岸で30メートルもの水深を持つ湖沼も考えにくい」
泥質層からは、淡水性プランクトンが見つかった。「海水性」でないなら、津波堆積物と言えないのではないか? しかし、山野井は説明する。「庄内砂丘は海岸側に小さな丘、陸側に大きな丘という2段階の地形になっている。小さな砂丘と奥の砂丘の間のへこんだ部分に沼があったとすれば、津波が淡水プランクトンを巻き込んで上ってきたとしても矛盾しない」
津波堆積物に詳しい産業技術総合研究所海溝型地震履歴研究チーム長の宍倉正展は「海由来のものが含まれておらず、これまでの常識では津波堆積物とは考えにくい。誤りだった場合、無用な心配を抱かせることになりかねない」と否定的だ。ただ「海由来のものがなくても、ある程度の時間、海水が陸地に停滞すれば津波によって泥質層が生じることはある」とし、「硫黄の含有量や電気伝導度を調べる手もある。判断は慎重にする必要があるが、さまざまな調査は防災上意義がある」と語る。
平安時代の先人たちは甚大な津波被害を受けたのか否か。真相はまだ分からないが、「東日本大震災では、過去に大津波が来たと指摘されながら生かされなかった。そうならないようにするためにも記録を残すことが大事だ。後世の人たちが参考にできるよう今後さらに詳しく調査していく」。山野井は、研究の積み重ねこそが、防災・減災につながると信じている。=敬称略
庄内砂丘で確認された泥質層(斜面に沿って分布する灰色の層)。津波堆積物の可能性があるという(山野井徹氏提供)
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