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やまがた観光復興元年

第1部・逆境を乗り越える[6] 小野川温泉の挑戦

2014/1/8 12:42
住民や観光客に好評の足湯。バックの黒板塀がいっそう風情を醸し出す=米沢市・小野川温泉

 「動かなかった小野川が動いた。『何処(どこ)でも出前』を見た時、涙が出た」

 先月15日、米沢市の小野川が市景観形成重点地区に指定された記念のシンポジウム。観光学の権威、溝尾良隆帝京大教授の思いが披露された。昭和50年代、温泉街の基本計画策定に携わった。しかし景観整備を訴える教授に対し、地元はスキー場を軸にした現状通りの集客にこだわり決裂。計画は破棄された。

 転機は2001年、突然巡ってきた。「JR東日本&JTB若手勉強会」と称する一行が来訪。観光活性化モデル地区として東日本で唯一選定されたという説明に「なぜ小野川に?詐欺集団じゃないのか」。同温泉観光協議会長の蔦幹夫さん(59)は思った。が、勉強会は本気。独自リサーチによる「若手のやる気と熱意」が理由だった。

 プロと地元が一体になった誘客とまちづくり。当時の勉強会メンバーは「着地型観光のはしり」と振り返る。地元若手が「観光知(ち)実行委員会」を立ち上げた。初代委員長で観光カリスマの佐藤雄二さん(50)いわく「地域を売り込むには、まず自分たちが『知る』。金をかけず『知恵』を出し合う」発想だ。

 動きは速かった。宿泊先以外の風呂に入れる夢ぐり(湯巡り)、露天風呂に足湯…。そして携帯電話で注文を受けた食堂が散策スポットに駆け付ける何処でも出前。温泉街をそぞろ歩く浴衣姿に溝尾教授は目を疑った。代替わりした小野川は力強く歩み出していた。

先月に行われたシンポジウム。温泉街活性化に携わったJRとJTBの若手勉強会メンバーと地元関係者が歩みを振り返った=米沢市・小野川温泉

 畳屋に塗装店…。まちの活性化を担う米沢市の小野川温泉観光協議会加盟事業所の3分の1は観光に直接関係ない。それが強みだ。半年前に旅館組合の事務員になった五十嵐範子さん(51)は「まちぐるみで活動するパワーに圧倒された」。

■全てが仕掛け

 「客は旅館ではなく温泉地全体の風情やホスピタリティーで選ぶ」と同協議会長の蔦幹夫さん。それ故コンセプトは「客を宿から出す」。湯巡りや「何処(どこ)でも出前」など全てがまち全体を楽しめる仕掛けだ。一過性のイベントやキャンペーンを否定。「ほたるまつり」は1日だけの催事から、1カ月半にわたる観賞中心の風物詩に変えた。「かまくら村」は2カ月で宿泊プランもある。「田んぼアート」は田植えから稲刈りまで5カ月のロングランだ。

 しかし、入り込み客減を食い止める答えは見えていない。山形新幹線つばさ開業の前景気に沸いた平成初期の30万人台から、今や10万人を切った。NHK大河ドラマ「天地人」ブームによる回復の兆しを、東日本大震災が吹き飛ばしてしまった。

 「楽しい温泉地」を目指すソフト一辺倒の路線は、見直しを迫られた。専門家から「温泉情緒がない」と手厳しい指摘を受け、景観整備の取り組みを始動。2005~06年、溝尾良隆帝京大教授を再び迎えたビジョン策定委員会で柱の一つに「美しいまち」を提唱。震災後も途切れることなく、米沢市景観形成重点地区指定に向けた取り組みを継続させた。旅館組合のブロック塀を黒板塀に変え、温泉街入り口に「湯の神様薬師堂」を模した歓迎塔を設けた。

■もてなしの心

 震災後に開いた景観まちづくり住民会議には町内会も参加。車の渋滞など観光客と住民にはあつれきが生まれがちだが、会長の吾妻静夫さん(63)は「どこまで客が減り、町が衰退していくのか危機感があった。観光地には住民のもてなしの心も重要」と理解を示す。町内会は昨年、お宮風のごみ収集所を整備、景観づくりに一役買った。

 小野川のまちづくりはソフトからハード、そしてハートも加えた取り組みに進化している。「住みよいまちこそが訪れたいまち」と蔦さん。観光関係者だけでなく住民も連携した挑戦は、始まったばかりだ。

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