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やまがた観光復興元年

第2部・原点に立ち返る[3] 三重・伊勢(下)

2014/3/1 10:59
伊勢神宮内宮近くの門前町を復活させる起爆剤となった「おかげ横丁」。江戸時代の伊勢の国を再現したまちづくりでにぎわいを生んでいる=三重県伊勢市

 伊勢神宮(三重県伊勢市)参拝の楽しみの一つが門前町の散策だ。特ににぎわうのが内宮(ないくう)前「おはらい町」。約800メートルの通りに江戸時代の風情が漂う土産店、飲食店が軒を連ねる。2013年の年間来訪者は650万人を超えた。昭和50年代半ば~60年代は20万人だった。当時、一帯は住宅街。変えたのは、伊勢名物・赤福餅で知られる地元老舗企業「赤福」だ。

 百五経済研究所(津市)の試算によると、式年遷宮の13年、伊勢神宮に1420万人が参拝したことによる宿泊や買い物、交通など直接的観光消費額は3千億円超。周辺産業を加えた経済効果は計り知れない。神宮の年間参拝者は、式年遷宮以外の年でも昭和20年代後半~30年代は400万~500万人、同40年代以降は600万人前後を保ってきた。門前町の観光客が激減していたということは、神宮への参拝者の恩恵を地元が受け切れていなかったということだ。

 門前町の衰退を引き起こしたのは、皮肉にも道路の整備と観光業の発達だった。他地域へのアクセスが便利になり、大型バスで回る観光スタイルが確立されると、神宮へは参拝するがその後は鳥羽や志摩地域へと抜ける現象が起きた。

 「かつての門前町は、全国の参拝者をもてなし、楽しんでいただいていたはず。それを再現したい」。赤福は民地も買い求めて約1.3ヘクタールの用地を確保し、江戸時代の伊勢の建物を復元した「おかげ横丁」を整備。1993年7月に17棟27店舗で開業すると、翌94年の来訪者は200万人を突破した。追加整備を加えて総額140億円を投じ、28棟55店舗まで拡大。そのにぎわいに、ほかの事業者も次々と店舗を開業。門前町は復活していった。

 伊勢神宮内宮前に広がるおはらい町。「おかげ横丁」を中心に江戸時代の風情で統一感があるのは、1979(昭和54)年に老舗の赤福と同社を中心に住民有志が設置した委員会がともに活動してきたからだ。住民の要望を受けた市は、89年にまちなみ保全条例を制定。赤福が寄付した5億円を基に基金を設立し、店舗建築などの資金融資に活用された。

■歴史に基づく

「おかげ横丁」を運営する伊勢福の橋川史宏社長(左)。建物や行事だけでなく、品ぞろえも伊勢らしさにこだわる=三重県伊勢市・おかげ横丁

 その中核にあるおかげ横丁のまちづくりは、全て伊勢のまちの歴史や原点に基づいている。名称は、江戸時代に起きた参拝ブーム「おかげ参り」に由来。建物と商品、行事、接客サービスで「伊勢の国」を再現するとの明確なビジョンで運営され、節分などの季節行事も数多く開催する。

 扱う商品も同様の考え方でそろえる。江戸時代、病気などの主人の代わりに犬が人々の世話になりながら参拝したという記録から、「おかげ犬」の土産品を開発。ストラップや置物、手拭いなどを展開し、人気を集めている。

 おかげ横丁の整備当初から赤福社員として関わり、赤福が設立した運営会社「伊勢福」の橋川史宏社長(56)は「そのまちの成り立ちを前提に、『本物』でまちをつくることが重要だ」と語る。20年で一大観光地となったが達成感はないと言い、「お客さまに喜んで、満足していただけているか」と常に原点を見詰め続けている。

■参拝順に着目

 おはらい町以外でも、まちの歴史や原点に立ち返った観光振興策が、数多く仕掛けられている。

 伊勢神宮の内宮と外宮(げくう)の参拝者は65年ごろまではほぼ同じだったが、内宮への車でのアクセスが良くなると、外宮の参拝者は内宮の半分に減少した。伊勢商工会議所や伊勢市、市観光協会は、かつて外宮、内宮の順で参拝されていた点に着目し、2009年度に「お伊勢参りは外宮から」の情報発信をスタート。また、外宮に食事をつかさどる「御饌都神(みけつかみ)・豊受大神(とようけのおおかみ)」が祭られていることから、門前町に並ぶ飲食店が地元食材を使った「御饌丼(みけどん)」を提供する事業を始め、外宮参拝者は着実に伸びている。参拝者が増加したことで飲食・土産物店も増え、さらににぎわうというプラスの循環も起きている。

 「伊勢には多くの神話や伝説があり、それをストーリーとして見せていくとお客さまが反応してくれる。まずは地域のストーリー、素材を掘り起こし、組み合わせてみることだ」。市観光協会の西村純一専務理事(45)は言った。

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